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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

いつか何処かで・・・。29

いつか何処かで・・・。29

倉敷は30度近く気温が上がった。スッキリと晴れたというのではない。何かむしむしする一日、そんな事あることだろう。
人間の日々が同じではないように…。

人間は常に煩悩に作用されて生きてきた。その煩悩がなかったら人間は成長しなかったともいえる。
「人生のすべての知恵は幼稚園の砂場で拾った」
幼い頃の経験が人生を左右するという例えであろう。今の幼稚園の砂場に落ちているかどうか、それを確かめることできない。が、おちていたらぜひ拾ってほしいという思いはある。
世界で一番に幼稚園を作ったのは、ドイツのフレーベル、教育学者。幼児教育がそのあとの人生に及ぼす影響を考えて幼児教育の重要性を説き、自らも八角園舎の幼稚園を作りそこで幼児の教育をした、それが日本に入ってきたのは明治の中頃か、日本にもその八角園舎が全国に広がり、まだ存続しているところもある。
人間関係、円滑にするすべ、遊びにおいての感性の芽ばえ、知ることの好奇心、許すことの情け、強調して作り上げる達成感、それらを砂場で拾うのだ。教えるのではなく学びながら気づかせるその自立を大切にしていた。
その名残として倉敷にも八角園舎は現存している。今の幼児教育について私には何も言えない。とにかく元気で明るく過ごしてほしいとしか言えない。
私はその教師に取材をしたことがある。
「園児というより親に教えてあげたいことが沢山あります」控えめにそう言っていた。
昔は幼児教育の場なく家庭ですべてが行われていた。これは世襲だったから出来たことだ。
私は常々教育の貧困は幼児教育の問題だと言ってきた。
その声はむなしく響き届くことは無い。子供たちの瞳の輝きを見れば何をほしがっているのかがわからなくてはならない。
今の日本社会がわかっていない、いくら教育を付けてもその家庭が貧しければまず官僚にはなれず、一流の企業には就職は出来ない。どこどこの息子という事が優先されている。その人間の資質などまるで関係なくそれが優先されている。勉強が出来れば大企業に就職が出来高給がもらえ幸せな結婚が出来、家庭が作れるという幻想は捨てるべきだ。大学に通わせている家では母親がコンビニで深夜にパートをしている風景をよく見る。だが、いくら頑張っても金持ちと続いている名家にはかなわないと知るべきである。そんな社会構造がまだまだ残っている。子供の特質を考えて進路を語り合うべきである。

佐藤義清、後の西行法師は徳大寺という公家の血筋で、鳥羽帝の北面の騎士として御所を警護していた。朋輩には平清盛もいた。彼は鳥羽帝の女院の待賢門院に恋をした、同時期友が若く急逝しこの世をはかなんで、紀伊の国、田仲の荘に残した妻子を棄てて出家する。これが西行の生き方であった。生きて何が起こるかわからない、将来を約束されていてもなお別の道へと歩むのが人間というものだ。西行は後に、
「歌を作るという事は仏を作るという事だ」と語っている。月に花をこよなく愛し、南河内の葛城山麓の弘川寺で円寂するまでの彼の生き方を見詰めて思うことはこころに沿った生き方だったと言える。
西行については「花時雨西行」として舞台で公演しているのでここにはこれ以上書かない。
が、人は何かのきっかけですべてを棄てて生き方を変えるものだという事だ。ここで書いておきたい。西行の父は彼が幼少の時になくなっているという事だ。これは西行にとって何を意味するのか、育ちゆく中で父のうしろすがたを見ることが出来なかったという事だ。
これは、釈迦にも言える、このことは皆さんも知っておられるので書かない。
今、必要なのは教育を付ける為にコンビニで深夜パートをすることなのか、人間の本当の姿を見せることではないのか、
私は答えを探している。
人に必要とされる人間になれと姿で心で教えることではないのか。
生き方に差別はない、それを作ってはならない、それを作るのは教育だ。それにこだわっているは親たちである。
夜の11時に塾の前に子供を迎えに来ている親たちの車の列を見る。
「今のままで、そのままで、何も世間に振り回されることがあろうか、自分の人生じゃ、思う様に生きなされ・・・」
良寛に語らせた言葉を付けたしておこう…。


いつか何処かで…。30

倉敷は空に雲がかかり晴れない一日であった。
風もなくよどんでいた。工場の煙突からいつもより多くの煤煙が吹きあげられていた。書いていると雨の足音がだんだんと激しくなっている。

今日は少し良寛さんのことを書いてみたいと思う。

良寛は出雲崎の大庄屋、橘屋の跡取り息子山本栄蔵として生まれた。平らに時が過ぎていれば山本栄蔵として何不自由もなく人生を全うしていたことだろう。
 だが、ひとの定めとは時に悪戯をする。父親の左門泰雄は商いに向いてなく五七五に魅せられ惹かれ以南と号を持つ程の歌うたい。だんだんとお日様が当たらなくなって家督を栄蔵に譲ってしまった。
 栄蔵は十七歳で庄屋見習いになった。
 代官所と村人の仲を取り持ち、佐渡の金山から送られてくる金を荷揚げすることになる。
その頃、飢饉が続き百姓一揆が起こりその斬首に立ち会い胃のなかのものを吐き卒倒した。栄蔵は名主の重圧を受け止めることができなかった。栄蔵は女に酒にと溺れる日々が多くなって行った。そして、何もかも放りだして光照寺へと逃げ込んだのであった。
 そこで寺男のような生活をしてのんびりと本ばかり読んで暮した。
 以南はそんな栄蔵に見切りをつけて弟の由之が後を継いだ。
 実家から仕送りを受けながら四年間過ごしたことになる。
 二十二歳のときに大忍國仙和尚が越後に来られ得度し剃髪をして仏門に入った。
 國仙和尚は栄蔵の顔をじっと見て「大愚良寛」と名付けられた。
 良寛は國仙和尚に連れられて備中玉島の円通寺にやってきて、そこで十三年間修業をすることになった。
良寛はその修業の中で縋るように仏の道を修めた。が、知れば知るほど、縋ればすがるほど身を縛られる事を感じた。
 良寛は円通寺の庭に出て遠く瀬戸の海を眺めることが多くなっていった。小波に操られながら漁をする舟を眺めながら人間の道もまだ同じなのだと思った。

 同輩の仙桂が田地を耕して作物を育て汗をかいているのを見ても何も感じなかった。道元の教えの「只管多坐」のなかには「一日作さざれば一日喰わず」という教えがあるがその言葉の真意を理解しようとせず、経典の中に救いを求め生き死にの導きに縋ろうとしていた。
 そんな日々の中に良寛はいてもなにもすることなく日向ぼっこをしながら内海の波が返すまたたきを見つめるだけだった。この当時にはうたの心も持ち合わせてはいなかった。
 そんな日々で良寛の心に芽生えたのは虚無であったのか、師の國仙和尚が示寂された後良寛は円通じをさった。手には國仙和尚から下された「印可の下」、どこの寺の和尚になってもいいと言うお許しの言葉が書きつけられたものを持っていた。
 良寛のそこ後の足取りは良寛しか知らない。

この数年間の行方は分からない。その後に国上の五合庵、乙子神社の境内で30年間ほど暮らすことになる。
俗説に良寛は子供たちと毬遊びをし、商家の屋号を書いたり、祝いの言葉を書いたりして、酒台を貰っていたというのがある。高名な寺の住職にと声がかかったというがこれは怪しい。良寛は越後に帰って自由に生きていたので声がかかるとは思えない。
「愛語,戒語」書いているがそれは若かったころのものとして笑っていた。
人に戒めなどいらないというのが良寛の精神であった。むしろ戒律の中で生きる方が楽なことは知ってそれを否定している。
自由に生きることは自分を律しなくてはならないからこれは苦行である。それをなぜ選んだのか、生き方の上で考えるという事を彼は望んだ。教えられて学ぶのではなく、自分で考えて学ぶ事の大切さを、「何事も教えられて学んではならない、自分で作るのじゃ」と良寛は語っている。
70歳のころ30歳の貞心尼と巡り合う、この出会いは良寛を人間として完成させることになる。
今までのすべてを棄て、なくなる4年間に良寛の心に芽生えたものは老いらくの恋であった。
「貞心さん、この世は総て夢、夢に生き、夢に遊び、この良寛、貴方のお陰で好い夢が見られた」     
     形見とてむ何か残さむ春の花
               夏ほととぎす秋は紅葉(良寛)
     生き死にの界はなれて住む身にも
              避けぬ別れのあるぞかなしい(貞心)

生きることは自らが作る、道を開くのだという事を私は感じた…。

いつか何処かで・・・。31

倉敷は一日風もなく日が照らずどんよりとした時間が過ぎていった。梅雨にふさわしい一日だ。
この5年ほど倉敷の町に行っていない。という事はどこにも行っていないということになるが、家人を連れて県北の美作の湯郷温泉に行った。その記憶がもとで美作は「砂漠の燈台」の舞台にもなった。自然に囲まれた長閑にところだが、山林はやはり崩壊の一途をたどっていた。自然は常に自らが再生を繰り返している。木々は枯れて倒木し朽ちて自然に返る。その朽ちた土から芽を出して成木を目指す。花を咲かせ胞子を飛ばして新しい木々を広げていく。光と風と雨に任す。鳥たちが実を食べて拡散していく。その営みは地球が誕生した時から変わらない。
そんな自然の中で果たして人間はどうであろうか…。
今、古代の歴史は大きく変わろうとしている。例えば黄河文明より長江文明が古いという説がある。私はその文明には否定的である。中国が広大に見えるが、それは今を見て判断している。シナに限って言えば日本より遥かに狭い。イギリスも、ドイツも、フランスも日本より小さい国である。人口もイギリスが6500万人、フランスが5000万人、ドイツが7000万人位だ。さてシナにどれほどの人口があったのか、文明が栄えるほどの成熟した人々が住み成長があったのか、その遺跡はあるのか…。
マルクスの「国家の起源」に例えるまでもなく、古代にはみんなで食料を作るために土地を耕していた。農機具が改良され生産は飛躍的に増加する。他の鉱石とは違い鉄は地上に露出するほど多かった。これは地球が出来たときにすでにあったCO2と雨により酸化していた場所にあった。鉄の釜や鍬が作られたのはもっと古い時代だ思っている。それにより食料は豊富になり溢れていた。働かなくていい人が生まれ、山ら登り天と地の稜線を眺めて人間とは何か、という真理を考え始め、瞑想するようになった。人口が増えたために土地を確保するために戦う人も必要になった。人々を安心させるためでもあり、土地を拡大するためでもあった。それらを指揮する人たちが生まれ国家という組織が作られた。マルクスはそう書いていた。つまり農耕が規則的に始まって国家が生まれたと…。マルクスのかいたものが真実かどうかはわからない、貧乏な学者が食べる為にロスチャイルドに書かされた「資本論」があるので疑わしいともいえる。なぜ、ヨーロッパに古代の文明がなかったのか、それは常に戦いの場所であったからだ。国家が形成されていたか、あっても直ぐにつぶされていた。つまり国境というものはなかったという事だ。爾来、隣国とは仲が悪い、スイスが永世中立国を維持するために、徴兵制を敷き、国民に火器の所持を認めているのは敵に対する侵略への防蟻である。
まあ、これは世界の歴史家にお任せしよう。道がそれている。
私が言いたいのは人間と自然の共生、いや一体なのである。
今、自然がなすことに慣れてはいないか、これが当たり前と思ってはいないか。
花粉症で問題になっている杉と檜は自生したものでなく、人間の都合で植林している。自然のものならば花粉が飛ぶような繁殖はしない、人間が植えたから自然の受粉が出来ずより多くの花粉を飛ばさなくては繁殖しないのだ。これを一体とは言わない。人間は共生という便利な言葉でごまかす。
自然を尊ぶならば自然を管理するなという事だ、自然の再生に任す、良く自然に人間の管理が届かないから洪水が起こるというが、、それはどうか、山の頂上まで家を建て、一つの県の面積に等しいゴルフ場を作り、ダムを作り、人間の欲望のために自然を壊していれば当然だ。自然破壊を憂う、それは傲慢である。人間が作ったという事を忘れている。雷に依っての山火事、焼き畑は自然の再生を助けているのだ。
今、日本近海で魚が取れなくなったというがそれは当たり前のことだ。
考えても見てほしい、昔漁師たちはなぜ山に入りその生成にこだわったか、雨が降り山の表土を川に流し海を魚たちにとっての餌となるプランクトンを作ってくれることを熟知していたからだ。
静物にしても動物にしても時が来れば自らが絶滅をしてきた。それが自然の生業である。
人間はどうか、何か忘れていることはないか…。
アジサイが美しく咲いている、人の心と同じでいろいろに色を変えて、まさに人の心を代弁しているように…。
ルソーのことば「自然に帰れ」・・・それはモクモクと大地を耕していた無欲の時代への誘いと理解している…。

いつか何処かで・・・。32

倉敷は一日中曇り空、つい少し前から雨がちらついている。梅雨であることを実感している。
人間が季節を感じるのは長くて80、普通で70回、いくら桜を見たいと言ってもそれ以上は見られない。その季節の巡りが人間の寿命という事になる。長いようでたいした時間ではない。日にちにして27500日、その間に様々な生き方人生がドラマティクに繰り広げられる。その間どの様に生きてもいい、人様に迷惑をかけるような生き方をすれば法律により裁かれる。また、宗教によっていろいろな戒律が齎され生き方を決められるという事もある。
宗教と法律らによって縛られることは人間にとっては楽な生き方だと言い続けてきた。そのようなものに縛られなくても人間の理性としてそれを行うということが出来なくてはならないという事を言いたかった。
孤独とは一人の時ではなく多くの人の中で初めてそれを実感する。孤独を愛するという事は精神を自由に保つことだ、が、この自由というのが厄介なものですべてが自分の考えで行われるからこれほど難しい生き方はない。人は自由をほしがりながら法律と宗教の戒律を喜んで受け入れている。その方が楽なのだ。
今の世の中、様々な生き方の流行があってその流れの中にいる方がこれも楽という事。まんまと乗せられているのが現代の女性と言える。肉食という言葉に惑わされてセックスをオープンにして積極的になっているのが今の女性社会だ。それについて何も反論の言葉がない。
性欲は男より女性の方が強い、男は誘因性性欲熱で女性によって誘導されて初めてスイッチが入る仕組みになっている。
女性は何か勘違いをしていないか、何を求めて太ももを晒し短いスカートをはいてピップをあらわにし、カップを乗せて胸を強調するのか、それは女性の勘違いというものだ。男たちは目のやり場がなくて困っているという現実を知らない。女性の体験は低年齢化している。男の経験はその逆で高齢化している。そこに不幸がある。正常ではない構図がある。
私はそれを不道徳だという事は言えない。が、メスがオスを選ぶときには強くてたくましく頭のいいオスを本能として選んでいた。それが動物を繁殖させ増やした規範である。人間も昔はその例にもれなかったから人類の今がある。
維新以前には人間は意外と本能で生きていた。性におおらかさというものがあり比較的に自由であった。
江戸時代の職人は2時ころで上がり銭湯に行き汗を流しはて家に帰り家族団らんの後吉原へ繰り出すという生活パターンであった。江戸時代は物価が安定していて、例えば職人の一日の稼ぎで1か月分の家賃が払えたから宵越しの金はいらなかった。安かった原因は便所のくみ取りで家主は稼ぐことが出来ていたというのもある。
「大根一本、小便一回」と言われた時代だ。
おおらかと言えばかかあが産めば誰の子であろうが我が子として育てた。
処女性などには見向きもしなかった。吉原はおろか、銭湯も、飯屋も宿屋の女中も夜になると男と女に代わっていた。
維新の伊藤博文などは遊女を妻にしている。
処女性を問題にしだしたのは維新後の明治政府である。これは戦前まで続いた。
男女の中にはタブーがなくていい。それが世界の風潮であった。
が、過ぎたるは及ばざるがごとし、いま女性に対しての男の反乱が起ころうとしている。男には風俗があるが女性にはないところから不倫が増加の一途をたどっていて離婚が急増している。男は怖くて結婚に躊躇している。
江戸時代には女性が男を買える場所があった。歌舞伎役者である。舞台に投げ銭をする、そこで金額により落札をするという制度があったのだ…。

私は古代に男が女性を求めなくなった時代を知っている…。そんな時代が来るような予感がしている…。
つつましさが最大のエロスなのだという概念をもっているからなのだろうか…。

いつか何処かで・・・。33

倉敷は鬱陶しい憂鬱に一日、雲はどんよりと低く垂れこめている。いつ雨が落ちて来ても不思議でしない。元気に花ビラを開いているのはアジサイ、ひきわりが時期に遅れまいと急に成長の度合いを増している。
そんな自然の営みに頬が緩む。
衰えを感じている。もともと持病として持っていた自律神経失調症は交感神経と副交感神経のゆがみから来ていて、体の随所に支障をきたす。医師に行ってもどこも悪くなくという人になればこの病名をくれる。
まあ、人間は生き過ぎているという事なのかもしれない。明治のころまでは平均寿命は50年、平均身長は5尺、よくもよくも体躯で大男の白人と互角に戦ったものだ。識字率では日本は群を抜いていた。60%の人たちが読み書きそろばんが出来ていた。その頃、イギリス、フランス、アメリカは10%に届いてはいない。シナにしても朝鮮にしてもほんのわずかの知識層しか読み書きは出なかった。アジアの向学心と向上心を持っている人たちは日本に来て世界の文学思想を学んでいた。日本は諸外国のものを日本語に翻訳して国民はそれを読んでいたから、その中に混じって日本に勉強をしに来ていた人たちは学んだ、シナは世界の名著の翻訳はしていなかったから日本でそれらを習得して帰っていた。「阿Q正伝」の魯迅も日本で学びそれを持って帰ってシナの文化に貢献した。
今シナで使われている漢字の単語の70%は日本人が翻訳時に作った漢字である。そんなことを知るシナ人はいない。漢字の単語はシナが作ったと誤解している。日本が作った漢字を使わなくては意思の疎通などできないのだ。
今日本でも盛んにカタカナを使って表現している方が多いが、そのカタカナでは日本独特の意味をあらわすことはできない。それを知ってか知らずか得意になって使っている。言語の表現で飯を食っている作家と称する人たちがカタカナを多用していることはほとほと嘆かわしい。日本固有の細やかに表現ができないことの気が付いていない。
それは朝鮮のハングルで表現するときにおおざっぱな言葉しか書けないという事と同じで、朝鮮人の心を書けないという事だ。
人間にとっての言語はなくてはならないことで、しかもそれを表現する文字がないという事はその人たちの限界になる。
日本語ほど一つのものを見ていろいろな感情を表現できる言葉はない。世界のどこを探してもそれはない。
素晴らしい日本語だけの表現の言語があるのだからせめて物書きはそれを使って書いてほしいと思う。
今、私は新刊など読んでいないし、芥川、直木賞など相手にしてないので皆目分からないが、カタカナの置き換えはたくさんあるだろうことは感じている。言葉の端々にそれが出ているという事は書き物にも多用されていることだと結論が出来る。
古典を読み砕いて詩を書き曲を付けて歌っているのはさだましさ
位か。日本語の言葉の中にカタカナが混じるので理解できない人も多かろう。
まず、カタカナの表現をなくして日本語で語れと言いたい。英語をカタカナにして語ることがさも立派なと勘違いをしている日本人の偽文化人はここを改めてほしい。
広辞苑を開いて見てほしい、一つの漢字で幾通りにも表現が書かれている。物書きはその一言にこだわるところから始まる。もっともっと自分が表現したい漢字がないかと探す。それが一つの喜びになってこそ物書きの端くれになれる。今はその漢字も使用は制限されている。が、一度書いてあとは編集者と話し合うことだ。若い頃新聞に書いていたころには漢字は中学校1年生程度でという制限を与えられた。物書きとしたらこの制限は殺されたようなものだった。3年間ほど連載したがそこで逃げた。
劇作も同じで話し言葉で書かなくてはならない、それはそれで理解できたのだが、小説の世界ではその制限はどうか…。
今、自分のために書いているから自由に漢字が使え、表現も書き連ねることが出来る。
長い道のりで今漸くに物が書ける、社会が認めようが認められなかろうが、そんなことは知ったことではない。
自分の好きなことを書いているとき程楽しく生きていると感じることはない。
メソポタミア文明の中のシュメール文明の文字と日本のカタカナが酷似している、これは何らかの交流あったという事…。縄文紀人には文化があり文字が作られていた…。

いつか何処かで・・・。34

倉敷は梅雨の晴れ間とはいいがたい。どんよりとして空。昨日から今朝にかけては激しい雨音が続いた。雨は落ちていないがいつ落ちて来ても不思議ではない。たぶん明日は降るだろう。私は気圧を敏感にとらうることが出来て気象庁より正確に変化を読み取ることが出来る。
アジサイ、またライラックという。この花を市区町村のものとして指定しているところは全国で多い。北斎がアジサイを画いているので探したが見つからなかった。
ドイツの医師シーボルトは愛妾の小滝さんをおもじって「おたくさん」と呼んだ、後にオランダで「日本植物誌」を書き日本のアジサイ14種を紹介している。
アジサイを「七変花」「八仙花」と呼ぶ。「またぐりぐさ」とも・・・。
花言葉としては「辛抱強い愛情」「一家団欒」「家族の結びつき」という事だ。
だが、美しいものには常に毒があることを忘れないこと…。
いや毒があるから美しいともいえる。
私はアジサイを見て思い出すことがある。
季節もちょうど今、雨が激しくはないがしとしとと落ちていた。
私は、書き物が一段落したので家人がやっている茶店のカウンターに座りコーヒーを飲んで書いたことを頭に並べて整理していた。普通なら店は終わっていて明かりを落としているところだが、カウンターの上だけはつけていた。
ドアに着けている鐘が揺れて音がかすかに響いた。風の悪戯かなと思ってほっておいた。その音は断続的に響いていた。
「あの、まだいいですか・・・」とドアの外から届いてきた。
私はドアに近づき鍵を外してあけた。そこには傘もささず立たずむ30くらいの女性が立っていた。
「すいません、こんな時間に、御無理でしょうか」
言葉の端にこの人の性格が出ていた。
「いや、コーヒーくらいならお出しできますが…」
「いつも昼間にこの道を通って店の前に咲くアジサイを眺めていたのですが、夜分に無性に見たくなって…」
店の前にはアジサイが咲き誇っていた。雨に濡れてより鮮やかに見せていた。
「どうぞ」
厨房に入りサイホンでコーヒーを淹れた。
30歳前後でしっとりとした女性で何か憂いを含んでいる顔だった。
彼女はコーヒーを口に運んで、
「おいしい」と言った。
「このご近所ですか」
「はい、会社の社宅です、今日は主人は夜勤なもので、トーレスの仕事をしていたのですが、雨のあじさいがみたくなり・・・ご迷惑をおかけいたします」
「そんなに恐縮していただかなくてもいいです。私も暇でコーヒーを楽しんでいたところですから」
「少しお話を聞いていただけますか」
「構いませんよ、答えを求められると困りますが」
「私って駄目な女なのです。主人にたくさん隠し事あって、亡くなるまでもっていかなくてはならないのです」
「・・・」
彼女は自分の過去を語り始めていた。
だれにも言えなかったことを私に吐き出すように語った。
「聞いて戴き心が軽くなりました」
彼女の顔に今までにない微笑みがこぼれていた。よほど思いつめていて誰かに聞いてほしかったのだろう。
私は聞いている間、何か不思議な思いに駆られていた。
それは彼女の若かったころの壮絶な体験だった。
倉敷水島の公害闘争に関わって東京から男女5人で入ってきていた。
運動資金を稼ぐために、彼女たちは夜の街に立って客を取っていたという。
そのあと主人と巡り合い結婚していた。
このことは主人には絶対に言えないことだと言った。
私もその闘争に関わっていたので、なぜ、という感じがした。
「子供たちが、お年寄りがなくなるのをじっと見つめていることが出来なかった」
彼女は最後にそう言葉を落とした。
私は何も言えなかった。呆然として公害闘争のことを思い出していた。
ドアの鐘がかすかになり、彼女の姿が消えていた。
アジサイは家族の絆。人間の絆、一つの命を尊ぶ行いが彼女を街角に立たせていた…。

いつか何処かで…。35




倉敷は晴れていたり持ったり、夕方には雨が下りていた。

こんな日も体は文句を言ってくる。それには慣れたが生きるという事はまさに「生老病死」の世界であることを実感する。

生きる苦しみ、老いる憂鬱、病の絶望感、死に恐怖、それが人間に与えられた定めなのか…。

人は等しくその4苦の中で生きなくてはならない。

が、それらと仲良く付き合いが出来る人も多い。そして、その苦しみをばねにして自分の道を切り開いた人も数知れずである。

定めに流される、人には定めが決まっているというような話よく聞くが、定めなどはないというのが私の考えだ、あるとしたら先祖の遺伝子がそれを管理していると思う。

西行法師は、

「定めに流されずに定めがあるのなら自らの意思で流れる」

波乱の人生を生きた人らしい言葉だ。良寛さんも同じようなことを語っている。

「何事も自分で決めるのじゃ」

おなじように仏門に入り修行を収めていながらなおそれらの経典と仕来り、戒めから逃れようとした人たちの言葉である。

ここで少し下世話ことを書こうかと思う。

西行は待賢門院の恋に破れた後女人をたったわけではなかった。が、彼から積極的に求めたりしなかった。もともと多情な性癖があったのか、女人の申し出は絶対に断らなかった。つまりモテたという事であろう。将来の出世も、妻子も捨てて俗世と離別したが、求めてくるものに対しては寛容であったと言える。

月と花をこよなく愛し、平泉への旅の途中そこかしこの自然を心に蓄えていたはずである。それらはすべとは言わないが歌にして残している。

詳しく知りたい方は白州正子さん樺山伯爵の令嬢である、の「西行」を読んでいただきたい。この人は白洲次郎さんの妻女である。女性が能の世界に入れない時に能を良くし能楽堂で舞った日本最初の人です。

西行に話を戻すと、

保元、平治の乱にはかかわらなかった。愛した待賢門院のお子達の戦いに巻き込まれることはなく外で見つめていた。崇徳帝とは歌の仲間で親交があり、流された直島には訪れ、待賢門院の菩提所の善通寺には足を向けている。また、平清盛が造形した厳島神社には招かれて出席している。その帰りに岡山の渋川海岸に立ち寄り崇徳帝が幽閉されている直島を遠望した。

私は「紫しだれ桜」の公演の中で待賢門院の言葉として、

「これから血を分けた者たちが争い血にまみれることになろうが、義清にはそのどちらにも加わってはならん、その歴史を見詰めていてほしい」と書いた。

西行はただ静かに世の中の流れを見詰めた。

世を棄て仏門に入ったが後にそれも捨て歌人西行として生きた。

75歳でその道を閉じている。

「歌を作るという事は仏を作ること」それが西行の思いであった。




また、良寛さんも、庄屋見習のおり家を棄てている。放蕩の挙句に女の子が生まれたという話もあるが真意はわからない。

良寛信仰者は良寛童貞説が根強く残っていてこんなことを書いたらつるしあげられる。

光正寺で寺男のような生活をしていた時に、備中は玉島円通寺の国仙和尚によって得度され円通寺に来た。

仏門に入っても、教学に時間を割いても良寛の心は晴れなかった。

戒律に縛られることが人間を堕落させるという事を考えていたのかもしれない。

13年間円通寺での修行、国仙和尚がなくなられる前に「印可の偈」を戴いたがそれを一生使うことはなかった。それはどこ住職、和尚になってもいいというお許しのものであった。その後良寛は全国を乞食坊主のように彷徨っている。

自然のおおらかさになかで人間とはなんと小さいのかと感じた筈である。

越後に帰り、国上の五合庵、乙子神社の離れで30年間ほど心の開放に時間を費やし、自然とのかかわりあいを求めた。

70歳にして島崎の木村家にお世話になり、そこでも心の有様を歌に死、書を書き残しいる。

今良寛さんの書は贋作も多いが数百万円はしている。

そこへ貞心尼が訪ねて来てこころの交歓が始まる。

そのことは貞心が良寛亡き後4年で書いた「蓮の露」にそのさまは残されている。

歌のやり取りはまるで幼い男女の恋文のようにも読める。

「うらを見せ表を見せて散る落ち葉」

子この歌は良寛のものではないという説があり、

「ちる落ち葉残る落ち葉も散る落ち葉」

良寛は貞心に見守られながら別の夢の世界へと旅立っている

74歳であった。

ここに西行と良寛を書いたが、生きるという事は泡沫の夢と言っているように、自由に生きることを推奨しているように思える…。

いつか何処かで・・・。36

倉敷は雲の動きは曇りときどき晴というもの…。
今朝がた激しい雷を伴った雨が降り注いだ。梅雨を実感する。
梅雨と呼ばれるようになったのは江戸時代、それまでは五月雨と言っていた。
「五月雨を集めて早し最上川」と謳われたのは江戸時代だかこれは梅雨の一風景を写しているものだ。
「実が熟してつぶれる」ことを梅雨と表していることも多い。
梅雨というのは日本独特のもので世界のどこにもない。
昔は気象庁などなかったから雲の動きと草花の成長で梅雨を感じていた。山に雲がかかりだしたという事で田植えを始める、自然の変化を適格に捉えて作業の日程を作っていた。
私が住むあたりにも田植えを終えた田圃が広がっている。昔は喧しかったカエルの声は聞こえない。雀の姿も見えない。
「「夏告げ鳥」の燕の姿は最近見ていない。
殺風景なものだ、そんな風景に人間は慣れてしまっている。

今日は「パイプの煙」の團伊玖磨さんに習って、今宵はコーヒー談義でもいたしますか、倉敷水島にはかつて街角には喫茶店が数え切れないほどあったが、今は純喫茶店はなくなってしまっている。大方が空オケの音を響かせて年寄りの社交の場に代わっている。
昔の喫茶店は誰でも出来たことから数を増していた。娘にでもやらせるかと工場に土地を売った金で開店させていた。
アートコーヒーは東京から北上し販路を求めた。キーコーヒーは西に下っている。私が東京にいたころにはこの2社が大半を占めていた。味の違いなど分からないから美人のウエートレスがいる店に足しげく通っていた。そんなときにも私は少し通りを入った小さな茶店に通っていた。10人も客が入ればいっぱいになるような構えでカウンター席は5席しかなかった。マスターの趣味か、マスターが描いたのか油絵が何枚か飾られていた。帆を立てたヨットが港に繋留されているものが多かった。マスターは定年で外国船を降りてこの店を始めたと聞いた。
物知りでどんなことでも知っていた。カウンター越しに彼がコーヒーを淹れるのをいつも見ていた。
「コーヒーの飲み方を知らない人が多い」いつか彼はぼそっと言ったことがある。
「それは・・・」
「茶会に作法があるように…それを押し付けてはいけないことだが…」
苦虫をかんだような顔をしていった。
「教えていただけませんか・・・」
彼は、訥々と話し始めた。朝一番に入れたコーヒーを一口含んだときに今日の心身の健康と平常心を見ると言った。コーヒーを淹れることは誰にでもできるが心身が整っていないといいコーヒーは入れることが出来ないというのだった。コーヒーには微妙に反映されるものだ。同じ店に行っても同じコーヒーがでるとは限らない、努めて同じ味のものを出したい、そのためには心になにか思いがあると変化する。だから平常心を常に保つことが要求される。一番心の揺れが左右するのはコーヒーの豆に落とす湯の温度だが、それを心のあり方でダメにすることがある。
彼はコーヒーを皿の上において前に持ってくる。スプ―ンはつけない、それには彼のこだわりがあった。
ブラックで飲んでほしいからではなく、シュガーポットから砂糖を入れ、コーヒーの温度で溶かす、フレッシュはカップの淵からゆっくりと垂れ流し幕をはらす。スプーンで混ぜない.ミルクとコーヒー、コーヒー、砂糖の味がするコーヒーとその3種の味を楽しんでくれることが茶店の冥利だと言った。
私はいつもブラックで飲んでいたからスプーンのことは見ていなかった。
「ブラックで飲んでくれる人は本当の味を知らない。スプーンで混ぜる人は本当の珈琲の味など分からない人たちだ。そんな人たちにも注文があれば飲んでもらう、知らないからと言って軽蔑はしていない。それぞれの生き方があるようにの味方もあるので、それはそれでいい・・・。なぜ私がこんな店を出したのか、それは妻へ贖罪なのだ、今までほったらかして世界の港で遊びまわった、が、せめて年老いて妻との時間を大切にしようとして二人でこの店をすることにした。そんな男の淹れるコーヒーの味を飲んでほしいというわがままがあった。人にああしろこうしろと言えた立場ではないが、私はここにきて飲んでくれているお客さんの姿を見るのが好きでやっている…」
マスターのそんな思いの言葉を聞いたのは初めてであった。
私の若かったころの話です。
今、缶コーヒーやインスタントコーヒーや機械で淹れるコーヒーに客は押しかけているが、そこにはそんな思いが転がっているだろうか…。
私はマスターの味を忘れてはいない・・・。
東京を逃げて倉敷水島に来ていろいろなことがあったが、当時、家人が始めた茶店は今も続いている。
タクシーに乗って土手の一番はやらない茶店で止めてくださいと言うと間違いなく止まった…。
岡山県下の文学青年、演劇青年、絵描きの卵、新聞記者のなどのたまり場で家人には面倒をかけていた…。
そんな茶店があることをみんな知らない…。

いつか何処かで…。37

倉敷は晴れているがむしむしして暑い。
7月に入った、歳を取ると月日流れはまるで五月雨のように早い。
毎日が青息吐息である。
若かったころには夏と冬には集中して作品を何本も二、三日で書き上げていた。それはもう夢とぞと思うになっている。
「めぐりくる季節の中で」の構想がまったくまとまらない、主人公の秋子が見えてこないのだ。見えてこないと何も分析が出来なくて途方に暮れることになる。途中まで書いて寝かせている。何も焦ることはない、これは現代女性へのメッセージとして書いているので頼まれたものではない。
この歳になっても人間がわからない、暗闇を彷徨ている。女性も男性も私の思考の範疇からはみ出していて理解の壁を越えられない。
この物語は女性の本能の美しさを書こうとしている。だから、古代からの女性を見詰めてその実態を捜そうとしている。男からしたら女性は永遠に神秘の中にいることになる。
物書きにとっては男女の恋愛は主要のテーマであるが、果たして本性まで書ききれているのかはわからない。
私が初めてそれらの作品を読んだのは、武者小路実篤さんの「友情」であった。今までも筋書きは覚えている。強烈に心に沁み込んだのだ。恋に悩む青年達の姿が描かれていた。明治維新後の女性の処女性を重んじていた時代だから簡単に恋することでは結ばれることもなかった。
その頃に、華厳の滝に身を投げた一高の学生、藤村操氏の辞世の句に衝撃を受けた。
「ゆうゆうたるかな天上、朗々たるかな古今、この五尺の小体をもって大を計らん・・・万有の真相一言にして尽く曰不可解・・・」華厳の滝にはこの文が碑として刻まれている。
何もわからないことが真相であると言っている。これもまた生き方なのだと思えるようになったのは時間が過ぎたころである。
森鴎外の「高瀬舟」により安楽死を自覚した。罪を犯した弟を安楽死させる兄の物語であった。
田山花袋の「蒲団」、幸田露伴の「五重塔」志賀直哉の「小僧と神様」芥川龍之介の「蜘蛛の糸」夏目漱石の「三四郎」菊池寛の「無名作家の日記」それらをある時期枕にして眠った。
外国のものも、ジィド、サルトル、ベケット、ゲーテ、トルストイ、ツルゲーネフ、イプセン、チェーホフ、ドフトエフスキー、
このころはなんでも読み漁っていた。哲学書、心理学書、マルクス、スミス、などもわかりもしないのに読んでいた。
読んでいまもこころにのこっているまのは、チェーホフとドフトエフスキー、ジィド、ラシーヌ、ヘミングウェー位だ。今ではすっかり忘れているが名前だけはこころに引っかかっている。
坂口安吾の「風博士」は脚色して公演した。懐かしさがある。
戦後、日本文学で影響を受けたのは、読んだのは安倍公房だろう。坂口安吾、谷崎潤一郎、三島由紀夫らの作品はすべて読んでいる。また、当時芥川賞を貰った作品はすべて読んでいる。書いていけばきりがない、芥川賞の作品では三浦哲郎「忍ぶ川」宮本輝「蛍川」柴田翔「されどわれらが日々」などが印象として残っている。
劇作家の端くれとしては日本の戯曲を読まなくてはと思ったが読んではいない。
なんでダボハゼのように読み漁ったという事だ。
この20年間は全く読んではいない。誰が何を書いているのかもさっぱりわからない。それがいいのか悪いのかもわからない。世間を騒がす作家が出てきていないという事か…。
出版界も大変らしい、活字離れが激しいという。
笹沢佐保、松本清張、水上勉、などは1カ月に何千枚も書いていた。今はそんな作家はいない。世界では1作がロングセラーになるからそれで次作まで食べられたが、日本はとにかく書かなくてはならない作家の宿命があった。
今では大小合わせて全国で5百ほどの荘があるが、それを取っ手作家と名乗る人もいるが作品も書けずに食べられないフリーターである。
苦節何十年という執念で出てきた作家には早晩出てきた作家との違いは歴然だ。要するに蓄積がない、当然の結果である。
そんな人が地方において賞の肩書で文化振興などしていたらたまったものではない。疲弊するのは当然である。
人間を書く人が人間ではない怪獣あれば人の心のひだなど読み取ることはかなわない。その人たちが地方の賞の審査員をしている、これは困ったものだ。
昔もあった、文学少女を食い放題していた人が審査員を、高校生を胎まして退職させられた先生が児童文学の審査員とは呆れたものだった。
今、日本には文学も哲学もその芽はない…。
色々と読んだり書いたが今はすべてを忘れている、時が過ぎれば何もかも過去になる。
が、頭のどこかに残り降臨するものかもしれない…。

いつか何処かで・・・。38

倉敷は曇り空・・・。
良く雨女という言葉を聞く、何かの約束や行事の時には必ず雨が降るという事で名づけられた。昔の女性は着物姿で番傘を指していると一つの情緒を見せてくれていた。男の目から見たらみなおしとやかに見えたものだ。
私は雨の日が嫌いではない。気圧の関係で体に変調をきたすが、それでもなお雨の足音は好きだ。いろいろな振り方が心に片輪系くれるように感じる。激しい土砂降りの音にはベートーベンの戦慄を思いおこし、軽快な響きの雨音にはモーツアルトを思いでしていたりしている。
風も、雷も、雪も嫌いではない。自然が差配してくれるものは阿振りがたく受け止めることにしている。自然の中に生まれ自然の中に帰る、自然の営みはすべてが人間にとって、慈愛だと感じている。だからすべてを受け入れる。その方が穏やかに日々を過ごせるからだ。いわば自然という筋書きのない未知の世界を彷徨っているようなものだ。自然に抱かれながら日々の暮らしの中で忘れているのだ。生き物の中で人間だけが自然を都合のいいように作り替えようとしている。それは傲岸でもある。

時はひととき、私の一日は・・・。

 夜空け前の四時に起き、お隣の井戸から一番の閼伽水(あかみず)を汲み戴き。それは仏様へのお供えする清浄水になります。手足を清め、朝の勤行・・・。お勤がわりますと、お堂の掃除を丹念に熟し、麦飯を炊き、味噌と漬物で頂き、洗い物を済ませ 、庵をい出て自然のなかへ、立ち木の生きる息吹、健気な草のいのち、鳥の囀り、鳥といえば鳥を私 は羨んだことが御座います。あの翼があれば、雪の塩入峠をいとも容易く跨ぎ良寛さまの囲炉裏端へと。この暫しの散策が私に色々のものを感じ取らせてくれるのです。
良寛さまのように・・・。私にも、生きものと、話すことが出来るようになるのでしょうか。 帰って頼まれ物の仕立てに取り掛かります。大店の奥さまの打掛けから、可愛い娘さんの人生の角での嫁入りの晴れ着、遊女の褥着、ありとあらゆる針仕事が、私を頼りに持ち込まれます。さして得意ではなかった嗜みの針仕事、根を詰めて糸で綾なします。その間は、良寛さまのことを忘れて着る人 の幸せを糸に託して・・・。ひと段落すると、明かり取りの下に転がる手毬のかがりに時を使います、良 寛さまはいつか、  「貞心尼の手毬は飾りも見事なら良く弾む」その世辞とも思える賛嘆を頂きたいと精を注ぎまする。良寛さまと今まで過ごした時の楽しさを思い起し、これからなにをどうと考えていますと、頬はぽかぽかと 、身体の中に温石をい抱いたように火照り、仏に仕える身でありながら不謹慎な事でございます。その 念いが、次には墨と硯の世界へと・・・。

「なあに~何事も自然が一番じゃ、逆ろうことが何であろうかな」
良寛さまの言葉が軽やかに鈴を鳴らすように響きます。

 この、何の変わりのない繰り返しが、私の修業、解脱への道程・・・そんな一日はほんの一時。時の流れの速さに繰り言のひとつもと・・・。ですが、雪の季節はむしろ有り難いと念う、人間とはなにかと思いて・・・。深く祈念を仏典の中に求めて彷徨、あれこれと応えのな い思を巡らせ、その一時が御仏に寄り添える時でございますゆえに。

「はちすの露」を公演、その貞心尼のセリフです。

何時の世も繰り返される心の文様、その単純な日々が穏やかな生活なのかもしれない。自然の巡りはこころに波風を作りそれを乗り越えて成長を促す。自然からのいざないである。
自然の営みに支えられながら生きているという実感を持って・・・。
決して地球温暖化でco2 の削減などと言う詭弁の迷わされることなく自然をたたえることが自然への恩返し返しかと…。
私は自然の織りなす変化の中で生きることの至福を感じている…。

いつか何処かで…。40
倉敷は午前中は雨が降っていた、風はそんなに強くない。今年初の暑さを記録、外は熱風が流れいたたまれない不快さを感じた。これは台風は影響なく午後からすっかり晴れて台風一過というところ…。

今の日本を見ているとあほらしくなる、言葉が出ない、国民の民度がなぜ低くなったのかと情けなくなる。
これでは戦中の朝日の戦争を煽る記事と一緒ではないか。それに振り回される国民は戦中と変わらないのか…。
自民大敗、国民はこの問題の裏を見る力もないのか、都民、国民が自己防衛を計っただけ、建設的に行動ではない。また、立候補者からそれが出なかったという事か。世界の選挙を見ても好きか嫌いか、風体が、顔がという範囲で投票している。政索なんか聞いていない、寧ろ邪魔としている。マニフェストでいれたのは前回の民主党の詐欺にかかっただけ。
後は小泉旋風の後を見ればいかに国民が苦労されていたかがわかる。ただムードで入れた、呑気な国民である、将来のことなど考えていない。
今回の都議選、風が落ちてきた小池であったからここで止まったが、もう少し前だったら自民は一けたになっていたかもしれない。
問題はこれから、小池は代表を野田に返した。さてここからが第二の小池劇場の幕があがるのはこれから、シナリオは私の中ではできている。
豊洲の早期移転、築地の後にテーマパークとはちゃんちゃらおかしい、時代錯誤も甚だしい。築地は五輪のために使われることは決まっていた。道路整備と選手村、前の渋谷の選手村は老朽化していて使えない。そこを新しく作り変えていれば、東京体躯館、国立競技場は歩いて行けた。それが出来ているとは聞こえてこない。小池の豊洲反対で10カ月遅れている。その間税金は垂れ流された。これは共産党の責任でもある。が、都民はほとんど知らない。
江戸は家康が来る前にはまだ沼地であった。太田道灌のころは潮が波打っていた。江戸時代も地下水は緯度として使ったがそれはわずか、川の水、玉川から江戸の町に用水を作り上水道としていた。築地で魚を洗うのに地下水を使っていたと知りびっくりした。はっきりと言って東京の地下には地下鉄が網の目のように走り、洪水を避ける為に幅20メートルのトンネルが走りまわっている。そこから地下水が出るのかと言いたい。豊洲も地下水を使うというような架空の物語で都民を誤解させている。
豊洲より築地の方がはるかに汚染されているのに共産党は継続を後押ししている。何でも反対という愚かなことをしているのだ。専門家が入って検査をして無害という判断を下したがそれは信じられにないという、根拠は何かを語っていない。それに振り回されたのが小池である。諦念のなさである。つまり理念がないという事が判断力を低下させている。またこの問題を議会をと通さずに独断することは民主政治に反することである。この一つをとっても徳川幕府が上水道を玉川から引いたという決断には負けている。
このままでは東京五輪が危うい、という事は前に書いたが、その危機感は都民にはない。それを反対する都民が多いという事ことなのか・・・。
小池は安倍総理との間で国政選挙は自民でと約束している。
これも何時反故にされるか分かったものではない。
小池も代表を野田に帰した、この二人は改憲主義者・・・さてどうか…。野田はもともと維新の人、松井大阪知事とは親しい。
それにしても泡のように生まれた素人議員に政治を行われるだろうか・・・。堕落した議員を選んだ愚かな都民は自己責任としてこれからを共有しなくてはならない。
私はもう今のマスコミに見切りをつけて国民の国民によるマスコミを作り国民の利益になる情報を伝達すべきであると思っている。その機運がまるでないことにがっかりしている。
私は公害運動をしていた時に、店の前に壁新聞を毎日書いて掲げていた。道行く人が読んでくれていた。新聞社が取材に来ていた。その頃はまだ新聞も理性があつたが今はない。
教育補助を莫大に使っても国民の知性は向上していない。酒と女と男と金に振り回されているのが日本人の実態である…。

いつか何処かで…。43




倉敷は朝から昼まで激しい雨がたたいていた。

そんなに気温はたかなく過ごしやすい一日だった。気圧が変化してくれたので頭の具合はよかった。が、何も手につかない、医者、耳鼻科へ鼻とのどの治療に行く程度であとは一日中部屋にこもっていた。




さて、今世界ではアメリカの俳優のリチャード・ギア氏が問題になっているシナを批判しハリウッドを追われたという。

その記事とあらましを個々に拝借する。

リチャード・ティファニー・ギア(Richard Tiffany Gere, 1949年8月31日 - )は、アメリカ合衆国の俳優。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。アイルランド系。




熱心なチベット仏教信者・人道主義者としても知られる。2001年には、アメリカ人の対テロ戦争について、愛と同情心を持つことの大切さを説いた一方で、2006年にはウサマ・ビンラディンが未だに拘束されないことへの疑問も述べた。2003年には、当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュのイラク攻撃を批判。アラファト大統領死後に行われた2005年のパレスチナ自治政府大統領選挙では、パレスチナ国民に投票を呼びかけた。2007年には、フィラデルフィアから人道賞であるマリアン・アンダーソン・アワードを贈られた。




ダライ・ラマ14世を熱心に支援し、中華人民共和国政府によるチベット民族迫害を激しく非難している。2002年にはヒマラヤ地域の人権を議論するため、ドイツ議会にも招かれた。2008年の北京オリンピックに際しては、前年に中国に対してチベット民族迫害の歴史をオープンにするよう訴え、聖火リレー前日のサンフランシスコでも、チベットでの人権侵害に対する抗議集会に参加した。しかし、このような行動は中国側からは反発を呼び、ギアをCMに起用したフィアットが謝罪するような出来事も起こった。そのためかリチャード・ギアは中国に入国禁止の対象になっている。リチャードは、中国のチベット弾圧は、ナチスのホロコーストにも等しいと指摘している。




また、エイズ撲滅活動にも取り組んでいる。ブッシュのイラク攻撃は批判したギアだったが、エイズ問題への取り組みについては賞賛を述べた。




クリントイースト・ウッドはさておき、私はギアが好きで日本に来た作品は大方見た。

「愛と青春の旅立ち」「ジゴロ」「コットンクラブ」「プリティーウーマン」

「運命の女」などなどであるが、そのほかの作品は見ていない、というのも私が映画の仕事をやめたからだ・

アメリカの俳優のにおいをあまり感じさせなかった、洗練された紳士であ。る。最後に見たのは「北京のふたり」日華事件の始まりを背景に日本軍人との友情が描かれていた。

私が一番好きだったのは「「コットングラブ」、ダイアン。レーンとの共演で禁酒時代の前の時代の華やかな舞台を演じていた。ダイアン・レーンとは「運命の女」ても共演し妻の浮気相手を殺す役を演じ、浮気による心を殺されての殺人と狂気を演じて見せていた。

ハリウッドでいえば、ショーン・ペンなんかは日本の調査捕鯨を妨害する団体に多額の金を出すという哲学のない俳優も多かったが、ギアは仏教徒らしく人道ということに重きを置いていた。

彼はまじめな性格からか作品を選んで出演していた。それは彼の知性だろう。そして、世界が見えていたということにつながる。

今回のシナに対してチベットの人道に反するの虐殺と理不尽な侵略には耐えられないものとしてのことだ。。ダライ・ラマとの友情もそこにある。チベット仏教との彼はその教えに忠実に沿ったたといえよう。

これからはハリウッドを離れ自由に映画制作に打ち込める、世論は決して見放さなさない、多くの人たちが支援し彼の思いが広がることだろう。

悲しいかな、日本の俳優にはそんな人は出ていない。

世界の秩序を、人権をエイズの問題に真正面から取り組み人間の尊厳を尊ぶこの人にこれからの栄光があることを…。

いつか何処かで…。41

倉敷は朝方激しい雨に見廻われた。梅雨という実感がしている。
そんな夏の初めに私は昔を思い出していた。
「夏告げ鳥とはツバメのことを言う。ツバメは渡り鳥で環境を熟知していて巣を作るにも居心地のいい環境を選んで作る。それは風水的にも正して作り方であるらしい。昔からツバメは縁起がいいとしてきた、それは環境と風水が整っているということだ。水田の稲作において害虫をたべてくれ益鳥として収穫をもたらしくくれる。
またツバメが巣を作ってくれるとその家には幸せが来るという。つまり繁栄するということだ。巣を作るときには作る家の人を見て作るともいう。その判断力を持っているということだ。
恋愛、子宝、商売繁盛をもたらし成就に高家するとも言われている。
そのツバメが最近全くいなくなり姿を見ることができない。私にそれだけの徳がないということなのか…。
夏を告げてくれるツバメ、ツバメだけではない秋を告げてくれる雀にも何年か出会っていない。
生き物についてはいろいろな説があるが、それだけ自然は崩壊しているのだろうか。生物は環境によってつねに絶滅の危機にさらされている。その繰り返しの歴史でもある。
先に書いたことで思い当たることがある。50-60歳の10年間には私の家のスタジオの天井に毎年ツバメが巣を作っていた。その頃はものすごく充実しい裾が獅子吼楽しい期間であった。ツバメのことを今書いていてツバメによる幸運の縁起を感じている。何もかも捨ててからはツバメは巣を作らなくなった。私ほ毎年応援に来てくれていたのかと思う。
皆さんの家にはツバメが巣を作ってくれているのでしょうか。
これはあくまで延期話かもしれないが、ふるくから伝承されている言葉でもある。
巣を作る家を選ぶときにそこに住む人を見て作る、燕には本能的に良し悪しがわかるということなのだ。恐れ入りましたというほかない。

ツバメといえば昔の仲間、梅内女史の小説「片つばめ」を思い出す。この作品は女流文学賞の佳作に入ったものだが、女性の運命をツバメに託し今年巣を作ってくれたら何も醸す捨て恋する人のとこへ行こう、来なかったら今のままで耐えて生きようという物語であった。
この作品にはとことん付き合わされた。毎晩書いたものを電話口で読むのを聞かされる、女優を目指していただけに滑舌も鼻濁も完璧で感情をこめて読まれる。それを聞いたことは私にとっても勉強になった。が毎晩、朝までということもしばしばで私が原稿を書けなくて困るということもあった。が、一日一日と作品として完成する、それは聞かされている私も楽しく自分のことのようにうれしかった。
私が相槌を打たずに黙り込むと、
「ここがだめだといいたいのでしょう」
と言い切り返してくる。それは一種の禅問答のようなものだった。
選者の三浦哲郎氏に激賞されたが惜しくも佳作だった。
彼女はそこで書くことをやめた。
「文学をしたのは人間としての生き方をさぐるため、言ってみればこころのせんたくなのよ」
と言ってのけ、つくば市でフランス料理店を経営し、その後には岩井半四郎につついて舞踊を習い流派を作った。彼女のそれが最終の目的で作家になることではなかった。
若かったころ、文学座の杉村春子に内弟子に来ないかと言われるほどの役者根性を持っていたが、彼女には付きまとう父の影があった。それは戦争中のものだった。彼女の父親は人間魚雷の製作にかかわっていたことがc級戦犯に問われ拘束されその罪が解かれても居場所がなくて逃げ回っていたと聞かされた。
私はそこに戦争の一つの影を見た。
彼女の父親が公職追放になったのではないかと思う。
のちに呉服屋の次男坊さんと結婚して二人の女の子の母になった、そんなころ文学仲間として知り合った。
着物の似合う人だった。いつも着物に身を包んでいた。
そんな過去をもって「片つばめ」を来るか来ないか、そこに人生を託する女性の生きざまを書き綴っていたのだ。
父親のこと、母親のこと、そして自分の運命をツバメに託したということだ。
花があり才能はこぼれるほど持っていたが賞を区切りとして別の人生をえらんだ。通過点として次なる挑戦をしていった。
私が今あるのは彼女からもらったものが心に残ったからだと思う。
書く執念と開き直り、人に歴史ありを知らされた。
ツバメ、それは未来を予言するものと認識している。
今、ツバメを見ることはないが私の心の中にはたくさんのツバメたち、人生を背負った人たちの姿が思い浮かんでいる…。

いつか何処かで…。43

倉敷はどんより曇って時に雨がぱらついた。相変わらず工場群の空はばい煙が作った厚い雲が垂れ込めていた。
空にはツバメも雀も、カラスさえいなくなっている。川にも魚が泳いでいない。公害は負ったという感゛終わってはいない。目に見えなくなっているが動物たちの動きから予測したら見えない公害が広がっている。
毎年検診があるが、肺のレントゲンは真っ黒け、肺機能の検査で肺活量は極端に少ない。もうこの生活をして50年になる。
シナのスモッグについて日本の公害を知らぬ人たちが盛んに激しいというが日本も相変わらず公害が空を川を海を汚している。調査もしないで無責任に論じる似非文化人たちには困ったものだ。
水島の病院、医院は公害病患者を抱えようと必死ななった時がある。公害認定病患者は国費で肺に関する治療費は無料となっていて、それらの患者を抱えることは儲けにつながったからだ。
50メートル先の家が瞬く間に消えた。スモッグによるものだった。洗濯物は乾いても黒ずんでいた。ぜんそくで幼い子供たちはなくなり、年寄りもなくなっていた。PPMというわけのわからない基準値が横行していた。
海に匂いのしない魚を、空に自由に飛び交う鳥たちを、川にたくさんの魚が泳ぐ、それらを返せと叫んだ。
爆弾が落ちた様な音が昼夜続いていた。工場の爆発だった。
新聞各社は専従の記者を置いていた。各政党はただ見ているだけで何も手を打たなかった。邪魔者にしか見えなかった。
私にはそれを遠い昔とは言えない。
安全基準のPPMでごまかされ、煙突はさらに高くなり公害を拡散させただけで、工場の排水がいかにきれいかを証明するために川の水を流していた。
港には大型の船が着眼し、工場建設、従業員が夜の店に集まり何でもが売れて素人でも商売ができていた。従業員たちは事故に巻き込まれて重傷を負っても労災にかからない処置が病院との間でやり取りされていた。医院がたちまち大きな病院へと様変わりしていた。企業の労組から市会議員になった人たちとは公害問題に対して取材をしたが発言はなかった。加害者意識があって公害のことは絶対に私たちの取材には答えなかった。
ただ 
煙突を高くして拡散し、水で薄めてキレイを装ったのが日本公害対策だった。公害先進国、シナに技術をと何も知らない人たちはそういうが今の実態も知らない人たちである。
そんな街で50年が過ぎていく…。自然の浄化で一見元に戻ったかに見えるが、海も空も川も絶対にもとには戻っていない。
人間は環境になれる、そんな汚れた環境に慣れて生活をしている。
当時栄えた街並みは今はシャッター通りに変わり、人影もまばらで、当時の面影はない。
漁師たちは漁業権を売り、家を建て今では工場の従業員をしている。農家は土地を売り本家普請をし借家やマンションを賃貸しし優雅に暮らしているが、ものを作る喜びを棄てたものにはもうその喜びも帰らないし、金であがなえる安物の生き方しか出来なくなっている。
生まれ、発展し、成熟し、退廃し、やがて瓦解する、それが自然と人間の関係、定義でもある。
私はそれをここにいてかかわった関係でぜひその過程を見届けたいと思う。
世界の情勢を見ても、その定義は変わらない。
海賊国家と言われていたイギリスの凋落と混乱は目を見張るものがある。また、植民地政策で成り立ち豊かであった国ほど、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、アメリカ、が経済危機に直面しているが、それも自然の采配であろう。
日本がシナで戦っていたのはドイツとアメリカであって蒋介石の国民党軍との戦いは記述するほどではない。山賊の野盗の親玉の毛沢東との戦いは一つもない。
ドイツもこうも世界から嫌われたらおしまいだ、シナの発展と成熟は過ぎて滅びゆく道に入っている、世界への野望はその焦りであろう。
ロシアの困窮ぶりは筆舌に余る。国民の生活を見ればその事実が見えてくる。韓国の民族性が世界から嫌われていることは周知の事実である。北も孤立を深めている。シリアの問題もロシア、イラン、トルコ、イスラエル、アメリカの思惑があり終結を見ることはないだろう。元凶を作ったのフランス、イギリスはもう蚊帳の外、石油利権がほしいからとイラクとシリアを分断し、そこの国民から人頭税を取りがこの戦いの元凶だが、ここにきて何もなすすべがなくアメリカに助けられているとは、移民による混乱と疲弊はしかるべく与えられた退潮への道のりてある。
フランスは世界の核廃棄物の処理を一手に任されてやっていたが、そのほとんどは西太平洋にドラム缶に入れて投棄するか、ロシアに金を払いシベリアに運び野ざらしに積み上げられている。フランスの原発は海岸線ではなく内陸の川沿いに50何基も作られているが、核廃棄水が今のところ汚染されていないが今後はわからない。下流の水で作られたワインを喜んで買って飲んでいるのは日本人である。日本人に福島の汚染を論じる資格があるのか…。
原発といえばシナのその施設は老化してきた。ダムや河川のインフラもその例外ではない。少し大きな地震が来れば三峡ダムは崩壊し何億の人たちが飲み込まれる。原発に事故が憂きれば周辺国は甚大に被害がもたらされる。
人間は危機に直面しながらも平々凡々と過ごしている、これは偉大というほかない・・・。
そんなことを雨の音を聞きながら書いていて惨めな思いに駆られらいる…。
これも人間の定めなのか…。
いつか何処かで・・・。44

倉敷は曇り激しい雨…。
この季節になると自然の災害が増える。
大雨と台風、日本風土はそれが特徴として成り立っていた。
昔からの神社仏閣は言い伝えにより災害が少ないところに作られている。それは風水とも一致するという。地震と台風にも崩壊されることなく今も威容を保ち存在している。
神社仏閣の雌雄には巨木が林立して風邪を防ぎ、根を張って地盤をしっかり捕まえている。これが日本の姿であろう。信仰の対象としてはあるものが常にあるということが原則なのだ。それがあることで安心して生きてきた歴史がある。
私は「砂漠の灯台」の中で、自然のままで放置されている森林を国家が買い国有林にすることを書いた。また、自然の自己の再生に期待してはどうかという提言もしている。さらに今の人間の進歩を、進化を止めることも書いた。
それは日本人ほど自然とともに生きた民族はいないという観点から生まれている。それは日本人の中に自然を精神の主軸にして生きたということだ。
それには日本国の生成にさかのぼりその時代を生きた人達の魂との交流し必要と思った。
古典の中にそれを見つめた。和歌の中に当時の世相と風俗、当時の人たちの心を探す旅をした。

花の色は移りにけりにいたずらに わが身世にふるながめせしまに            小野小町

美しいの…綺麗じゃのう…ここからの眺めは極楽への道のりでふと立ち止まって須弥山を眺めておるようじゃ。

琵琶湖には沈み行き隠れてゆく夕日がさかさまに映りのみこまれ・・・。

緑の風が湖面に白い漣を立たせて…。その上を小さな生き物が飛んでおるようじゃ…。陽炎か・・・あれは…。

自然の景色の移ろいは何にもかわっとらん…。変わるは人の心か…。

穏やかな紅い湖面に映る周囲の山々も波が立つとゆれて変わっていく…。人の心も物思うとその時々で変わり行く…。三千の煩悩一瞬にしてまた変わり行く…。

人とはなんと倣岸な罰当たりの業を背負っているものか…。

嫌じゃ嫌じゃ…。何もかも忘却の川に流し…。

ひと時この風に誘われ自然の懐にあって癒され和むことにしよう…。

なにこのわしに聞きたいのは、京への道かそれとも越前への道かな・・・。

人がひと時のんびりと風と共に遊び心地よい夢を見ていたというのにそれを起こし、この現実に引き戻すとは何というお人じゃ。

人の世の苦しみから夢はひと時何もかも忘れさせてくれる・・・。

なに・・・。うん・・・うん・・・。

それは・・・それは遠い日のことじゃ。わしの空っぽの頭の隅に残っておるじゃろうかのう・・・。このばばがまたうら若い乙女であった時の事じゃゆえ・・・。

東山科の里から琵琶湖畔の小野の荘、この地は今日と変わらぬ時の日差しが降り雪いでおった・・・。

 それは一日として変わってはおらん・・・。

 長閑な日々の繰り返し、風たつ日、雨の雫の落ちる日、雪の舞う白い花びらの散るような日、陽が滾々と降り注ぎ心乾く日、それぞれがこの琵琶湖の美しさをより際立たせ、変化のある景色のさまを飽きることなく見せてくれましたぞ・・・。

あれは・・・。遠い古の思いを手繰り寄せ・・・。

 今は人の影とてないこの館、風雪にさらされ朽ちゆき、館の外塀も破れて剥げ落ちて・・・。

 夜盗にあらされ破れた簾が垂れ下がり・・・几帳は倒れて壊れこなごなに・・・。磨きこまれていた部屋の板の間は土煙が立ち・・・。

 明かりをなくした屋敷はなんともおぞましいものでしょうかな・・・。

あの頃、この館は花が咲いたように・・・。

これは「小町うたびと六歌仙」に幕開きの一説である。
小町というのは女官の位を指している。局、更衣、町という名で呼ばれていた。小町は町の位の名前である。その小町がなぜ全国にわたりなおつけられているのか、ここには政変の犠牲になった小町の存在がかかわっている。
ここで書くと少し長くなるので、なぜ、そんなにもうまくない歌詠みが六歌仙に名を連ねているのか、百日通いの逸話が残っているのかは・・・。
次回に書きたいと思う…。
常により中の不条理によってその犠牲になった小野小町をなぜ書いたか、私は三島由紀夫氏の「卒塔婆小町」を読んではいない‥。
小町と平安の初期に遊び話すうちに小町を想像して書いた…。

いつか何処かで…。45

倉敷は朝方に雨が降ったが、今はやんで薄日が差しいている。
この季節は小野小町が生きた時代と少しも変わっていない。
同じ環境の中で同じ生き方をするということはない。そこには機根があり、時代を背景にしていとなみがある。その一コマを覘いたといえようか…。

これば小町を書いた時のノートです。
「小町」創作ノート
小町がだんだん形になっていく。小町の姿が見えてきた。顔かたち、瞳の大きさ、鼻の高さ、朱唇、腰に垂れる豊穣な黒髪などがだんだん見えてきた。こうなればこっちのもの90パーセントが出来たようなものです。
 才色兼備の美人であった。が謎が多すぎる。文徳天皇の皇太子惟仁と惟喬太子との確執に、藤原家と紀家の争いに・・・詰まり政変に巻き込まれた形跡が見えてきた。
 小野家と文徳帝の中宮紀静子の第一太子惟喬との関係、文徳帝と藤原明子の子惟仁皇太子後の清和天皇、この図形になにやら謎が隠されていそである。
 小野滝雄には二人の女の子があった。姉は仁明天皇の更衣であった。が、妹は姉を大町というので妹を小町と綽名したとしたら・・・。そして、なぜに六歌仙となったか・・・。政変に巻き込まれ不遇の死・・・。そして歌の神へと立てまつわれたのか・・・。

前回の本文に続いて…。

季節で申せば春であったのか・・・。それとも冬への道のりの秋・・・。

 この館にはお二人のお姫ごがおられました。上のお姫子は吉子さま、下のお姫ごは清子さまと申されました。お二人の歳の開きは四歳、吉子さまはこの琵琶湖に面した小野の荘でお生まれになられ、清子さまは北国の出羽でございました。お父上の小野龍雄様が出羽に国司としておいでになられていたときに清子さまはお生まれになったので御座います。

 当時流行の唐風の衣をまとい、髪を両の耳の上に束ねて組み庭に出て遊んでおられる姿はまるで天女のようでございました。いつもお二人は同じお伊達をなさっておいでで御座いました。二人の天女が風に舞って空を泳いでおいでのようで御座いました。

 幼さをちりばめたお顔にも育ち行く後のお顔が見えるようで、それは咲く前の蕾の開いた花を思い起こすことが出来たのでございました。

吉子さまは肌の色は卵の白みのように透き通っておられ、それに引き換え雪国生まれの清子さまは雪焼けした肌のように地黒で御座いました。なんと言う不思議なえにしで御座いましょう。

 お父上の出羽守の任が解かれ琵琶湖畔の小野の荘へ帰られたのは吉子さまが十二、清子さまが八歳のときでございました。

 幼い頃からそれは利発なお子でございました。万葉集を学び、書を習い、お父上の文章博士のお勉強もずいぶんと積まれておいでで御座いました。そんな従順なお方で御座いましたから館様もお喜びになられ大事に育てておいでで御座いました。

お二人とも劣らぬお元気なお姫子で御座いました。

人の世の習い、小町は女人として成長するに従いそこに無常を感じるようになる。
この続きは明日にのこして…。

昨今は自分の至らなさを棚に上げて被害者ぶり横柄な態度でまかり通る輩が多くみられる。すべて自分のため、社会を騒がす愉快犯のように…。幼稚園のおっさん、ロリコンの官僚、定見なき政治家、自分の言葉を持たぬ似非文化人たち、金のために転ぶ学者、人権なき弁護士たち…。
狂っているとしか思えない。
この国は海に漂う島なのか、行き着く港は遠く果てしない…。

いつか何処かで・・・。46

倉敷は今日はすこぶる暑い日であった。今でも余熱が残り外は蒸し暑い。
といえば。性゛市の世界にはまだ三文芝居が続いている。国民の在り方は日々の安らかなはずだが、その中に入り主人公を演じたい人たちがあふれている。
今日は少し長くなるが、小町を載せたい

お妹子はお姉さまよりご活発で何をなさっても華が御座いました。それは見事に大輪が咲くと申せばよろしいのでしょうか、黒髪が腰のくびれに届く頃には立派な花びらを開いたようにあでやかに咲き誇っておいでで御座いました。黒髪が少し赤みを帯びていたのですが、それがまた違った美しさを見せていたので御座います。

切れ長の澄んだ瞳、その瞳は何かを訴えようとしているいたずらの光がちらりと、幼いお子のものではございましたが、男はその光に当たると痺れて立ち尽くすので御座いました。男を誘い込むというのではなく、男は花開き滴らせる蜜に吸い寄せられる蝶のように群がってきたので御座います。

琵琶湖の畔の館には二つのあでやかな大輪が陽の明かりのもとすくすく成長し花開くときを待っていたので御座います。

吉子さまは北国の育ち、純白のきめの細かい肌をお持ちで御座いました。北国のときのめぐりがより肌を磨いたのでしょうか…。

幼き頃よりお側で面倒を見させていただいていた私でも惚れ惚れするおいでたちで御座いました。お姿で御座いました。先にも申し上げましたように清子さまはお日様に当たりすぎたような肌であったことは申し上げました。それが健康的に映りお元気な姿に見えたので御座います。お二人のことは都にも噂は届き、男達が一目でも見たいと訪れるので御座いました。まだ開かぬ蕾を見られて大きなため息をつかれるのが常でございました。

穏やかな琵琶湖の水面に映る朝焼け夕日、風が起こす漣、渡る鳥の群れ、囁く虫の声、自然のめぐりに様々に色を変えるその様を眺めながら心に蓄えられて大きくなられたのでございます。心躍らせながら眺め万葉の世界を歩む、書き物の修養で心を整えられて、その道を辿りながら大きくなられたのでございます。

館様の心配の種は清子さまのおぐしが栗毛の馬のような色をしておいでで、カラスの濡れ羽色のような黒髪が長く腰に流れ、床に届こうかというのが当たり前、女子の値打ちだったころのこと、それを案じておいでで御座いました。

また、男のように地肌が黒いと言うことも、雪のように白く透き通っているのが女子の価値をきめる基準であったため、ひどう心を悩ませておいでで御座いました。

たしなみに筆を持ち景観をものにする事の好きな館様も、それにもまして外に出て琵琶湖の風や鳥の渡りを小筆で絵にすることも慰めにはならず、胸を痛めておいでで御座いました。

吉子さまと清子さまをお比べになり、ため息をつくことも多かったので御座います。

吉子さまは十五になられてすぐに仁明天皇の更衣にあがられまして御座います。唐風の衣を脱ぎ捨て十二単に着替えられた吉子様は静かな中にも凛とした美しさを備えられいたずらの風にも揺るがない出で立ちでございました。                                      

更衣への道のりには館様の思惑が多くはらんでいたようでございますが・・・仁明天皇の寵愛を受け親王を授かるとなりますと館様の地位はどこまで上がりますか・・・。そんな駆け引きがちらほら見え隠れしておりましてございました。

お孫が天皇にでもなればその一族は政の中心に・・・というのが世の習いでございましたゆえ・・・。

屈託のない清子さまは大空を白い雲が遊ぶようになすままに日々を営んでおいででございました。

女としての体の変化を見たのはそんなときでございました。                             

そのころから清子さまはおぐしもわずかに黒味を持ち始め濃いい栗毛に変わりまして御座います。ですが、黒色では御座いませんでした。

肌も地黒では御座いましたが僅かに白くなり果実が熟れて粉を吹くようなみずみずしさを保つ健康な色に変わりまして御座います。

清子さまは水仙の白い花の中に一輪の黄色の花が目立つようにより人の目を引いたので御座います。

とき過ぎれば頭を垂れる水仙の花の中にあって凛としてたち花香を放ち見事に咲いて見せたのでございます。

同じ年頃の女の子の中にあって誰もが目を見張りため息をつき、近寄りがたい不思議な雰囲気を持っておられましてございます。肉薄き少女の体からふくよかな張りのある女の体へと脱皮しつつあったのでございます。

怪しげな女の色香に満ち満ちておりました。匂たつとでも言うのでございましょうか・・・その芳情の香は、幸か不幸か清子さまの持って生まれた資質でございました。その香りがどこから出ていたかは・・・おそばに仕えていました私だけが知っていたことでございました。 

男の行く極楽には女がいないと聞いた・・・。

女の行く極楽には男がいないと聞いた・・・

なんと理不尽なことを・・・女と男・・・そこに極楽も地獄もうまれ悲喜こもごもが生まれるというものでございましょう。・・・男があってのゆえに女は体に香を染込ませ一重の絵模様に心砕き顔に化粧(けわい)を施し黒髪に櫛を流し花びらを開き・・・。

切ない、花の開かぬ極楽なぞ・・・ 

このわしは地獄に落ちてきっと花開こうぞ・・・

 あの清子さまの匂いは極楽の、または地獄のものあったのでございましょうか・・・。

 人と同じ煩悩の色に染まるもみじ

 身を変えたいと生まれ変わって女の道を生きたいと舞う女舞い

 もみじの化身として赤く身を焦がしてなお求め行く女の哀れな性、悪戯の心・・・。

 女の滴る蜜は尽きることなく滴り落ちて地獄へ流れつくのでございます。 

まだ開かぬ清子さまの蕾は花の命をはじめようとしておいででございました。 

 やがて天女の衣を脱ぎ捨て単衣の重ね着を羽織られ女となっていく・・・。

いつの世も争いはある。こくたみの思いは日々の平安である。今まで人間が生きてその心の安らぐときは果たしてあったのか…。

いつか何処かで…。47

倉敷はどんより曇り時に薄日が差していた。気温は固い、じっとりとした風がまとわりつく。
私は読んでくれる人もないものを載せている。時間つぶしの行いをして、心のイライラを和す利用としている。
今の日本は戦争中である、秩序の乱れは、人の心は、・・・。


秋風に逢ふたのみこそ悲しけれ 我が身空しくなりぬと思えば           小野小町

 ときの訪れと同じであろう女の定め、その苦悩を知らずに、純白の衣を風に泳がせ蝶に戯れるそのお姿はまるで天女のさまでございました。

 何も知らずに天女として過ごされるか、衣を汚しながら女の命を全うされるか、清子さまの生き行く道を思い浮かべながらひと時の想像をめぐらせ心躍らせたのも確かでございます。案ずるゆえの悪戯の心がそうさせたのでございます。

 殿御の文に身を焦がす事がそれほど遠いときの運びを待たなくてもすぐであろう事は・・・。そのときのお顔を頭の中に描きながら成長する一輪の花を眺めていたのでございます。

 純白の敷物の上に扇状に広がる豊かで長い黒髪、戯れる一匹の蝶、その姿を心の奥に期待していたのでございます。

 美しいものに対してないものが求める悲しい性なのでございましょうか・・・。

 華麗なものを壊したいという寂しい女心なのでございましょうか・・・。

 私のことを・・・。

 弥生式部と名乗っておるが、それは真っ赤なうそ。

 小野の荘のこの館で雑仕女をしていた女ですわ・・・。

 吉子さまと年は同じ、更衣としてあがられる女もおれば、里の館で雇われて手伝う女もおりました。身の不運、いいえ生まれた家の違いとあきらめていたことと申せ、あでやかな御出でたちの吉子様を知らず知らずに比べ羨ましく眺めているいたいけない少女だったのであります。

 湖面に顔を映してもさして変りのない容貌と思ってもその隔たりはあまりにも大きかったのでございます。

 吉子さまが更衣としてあがられたその夜、お酔いになられた館様が・・・。

 琵琶湖の漣が大きなうねりに変り私を飲み込んでいきました。

 風が吹き雨がたたき雪に弄ばれながら嵐が通り過ぎた後・・・。

私は琵琶湖からの風を体に受けようと衣の前を大きく開き何時までも立ち尽くしていたのでございます。

―女になった、この館の女より先に、おんなになったーー

 心の中でそう叫んでおりました。

 だけど、その居丈高もこれからの道のりへの歩みの不安と恐怖で揺れ、それゆえの叫びであったのでしょうか。

 引いてゆく更け待ちの月明かりがそんな私を照らしていたのでございます。影は足元にうずくまりじっとしていたのでございます。

 頬は微かに笑みを浮かべていたのでございます。

 熱い獣の血がざわざわと動き出しているのを感じながら恐怖におののいていたのでございます。

 回廊を渡る風は雨を予感させるように・・・。火照った体から噴出した汗を奪い取ることはございませんでした。

 そんな日がありまして・・・。

 館様は思い出したように・・・。私の幼い性はだんだんと開花していったのでございます。

 十二歳になられた清子さまは相変わらず和歌に親しみ書に励み女子としての素養教養を身につけておられたのでございます。

 その頃から館の池にお顔を映して化粧をほほに広げるようになりました。だけど白い化粧をなされても地黒の肌は隠せなかったのでございます。

 それに引き換えこの私はだんだんと透き通ったような肌に変わり、乳房も大きく張りを持ち腰の括れも滑らかになっていったのでございます。

 男が女の体を変えていったのでございます。

 館様の寵愛を受けながらの雑使女の働き・・・。

 いつかそれは吉子さまが更衣として宮中に上がられたすぐ後、館様が、時あらば書を習い、歌を鍛錬せよとのお言葉を・・・。

 それはほんにうれしいお言葉でございました。

 今こうして弥生式部と・・・。

 父が式部の将ゆえ名をそのように・・・。

いいえ、いいえただのばばでございますが・・・。

そのことには後がございました。

清子さまが十四歳になられると宮中に上がられることが決まり、私もお側つきの女としてお供いたすことになったのでございます。そのための支度であったのでございます。

小町は成長して、その思惑に翻弄されることになる。
人が生きた時代には社会のしがらみから逃れられず、その流れに逆らえず、ただかいだんを上った…。

いつか何処かで…。48

倉敷は今日。晴天が続き暑い日になるという。32度と予報…。
それにしても昨今の日本国は異常事態である。この混乱はテレビと新聞が理性を失ったことで始まっている。また、それらは金というものしか見えていない。それをさえている資金源潰すしかない。
今日もそんな中小町を載せようとしている。浮世の憂さ晴らしというところか…。

十三歳の清子様には・・・。

 「あなたは殿方を知っているのですか」

 殿方の文が届くようになるとそのように私にとったのでございます。

 「はい」私は小さく言葉を膝に落としましてございます。

 「そうですか・・・。私は殿方が嫌いなのです」

 利発で明るい清子さまの裏の面を見たようでございました。

 「更衣として上がられると・・・」

 私は呼び水をさしました。

 「怖いのです・・・このごろどうして女に生まれたかを嘆くのです、考えるのです」

 今まで見たこのないくぐもった顔と理性を捨てた声でございました。清子さまの本音を見たのでございます。

 「それでどのような・・・」

 恥ずかしそうに言われて、

 「いいえ、もう・・・」

 うなじが赤く色をつけておられました。

 「男は獣でございます。心と体をばらばらにして弄ぶのですから・・・」

 私は初めてのときのことを思い出しておりました。

 いかつい獣が襲い掛かり体を引き裂いたときのことを・・・。

 「なんという・・・おぞましいこと」

 「ですが、その獣が・・・」

 「私が・・・この肌が・・・あなたのように白くないと・・・湖に向かって立ち尽くすあなたの白い体を見たとき・・・」

 「いいえ、肌の色ではございません、これから・・・。男を知れば瑞々しい肌に・・・」

 あの夜の事を見られていた。そう思うとなんだか意地悪心が頭を擡げてきたので御座います。

 「そんなものなのですか・・・」

 思案げに言葉を落として、

 「女とは悲しいものなのですね」

 といわれたので御座います。

 そんな日が御座いまして・・・

 館様が訪れになられたときに、さわりを語りまして御座います。

 「それは困ったな、男嫌いでは・・・」

 館様は私の肌を愛おしく撫でながら、

 「地黒が仇になっているのか・・・」

 「いいえ、あのお年ですとそのようにお考えになられます。自然なので御座います。ですが・・・」

 「男を知ったら狂うか、お前のように・・・」

 「はい。押しつぶされたい、壊して欲しいと考えるものなので御座います。女の体とはそのようなもので御座います」

 「ならば、清子の教育はお前に任そうかのう」

 「そうしますと、もっとしばしばのお運びがなくては・・・」 

 「そうじゃのう」

 館様は頬を緩めて・・・。

 琵琶湖からの風は心地よい流れで御座いました。


3

わびぬれば身をうき草の根をたえて さそう水あらばいなんとぞ思ふ  小野小町


はい、清子様も更衣として上がられたのでございます。におうばかりのお美しさと申せば良いのでございましょうか・・・。咲く前に咲く密かな一輪の花が表舞台へと歩を進められたのでございます。

十四歳とは思えぬほどの立ち振る舞いで、堂々としておいででございました。更衣の吉子様、清子様、館様の出世はもう誰がなんとも言えない所まで上がろうとしていたのでございます。

 私は館様の「待っていてくれ」の言葉を恋しがるそんな女に代わっていたのでございます。

 咲く前に毟り取られた花は蜜を滴らせて待つ、そんな花の命にようやく芽生えていたのでございます。

 館様は足しげくお運びになられました。官位が上がれば蝶の羽ばたきはより旺盛になるのでございましょうか、狂ったように蜜を欲しがりましてございます。

ここまで書いて、言葉として書いていない。なぜここで、と考えても、在原業平、深草の少将、紀貫之、ここで立ち止まった…。私の構想のミス、弥生式部を吉子に伴をさせた、これでは清子が書けなくなったということもある…。が、ひとまずここで、今回で閉じたい…。

認識として日本は狂ったテレビと新聞による国民への宣戦布告である…。
これは何の序章であろうか・・・国民は自己防衛しかない…。

いつか何処かで…。49

倉敷は33度の暑さで外には出られなかった。体調は頭がぼーとしているが思考力に変化は見られない。目がほちほちする。
「頭痛肩こり樋口一葉」ではないが、そんな中貧しいながらも心穏やかに暮らしている。
「小町うたびと六歌仙」を途中で終わったが、今平安初期の小町を訪ねることは体力が持たないので、ここまで読んで下った人たちには誠に申し訳ない。
この件は、柿本人麻呂と同じで殺しておいて「柿木神社」を立てて、怨念や恨みを被らないとした当時の習わしが、小町を「六歌仙」に仕立て、全国にその話をばら撒いたという事です。
これ以上は今は書けません。差しさわりが大きい…。

さて、小町にうつつを抜かしていたら、日本国民に📺テレビ、新聞、俗にいマスメディアから宣戦布告が届いているではないか、テレビと新聞の情報を信じる年寄りたちが亡くなるまで維持できないとわかり国民に喧嘩、交戦状をたたきつけている。
正常ではないことは見当がついていたが、ここまでとは、なりふり構わず安倍総理を引きずり降ろそうとしている、つまり民意を無視して狂ったように制御能力までなくしている。
今、政府では朝日の押し紙について審議されている。発行部数の80%が購読されていないと事業を閉じなくてはならないという法律がある。が、朝日はそんなこと知ったことかという押し紙を刷って、発行部数に対する広告料を詐欺していたことになる。広告主は詐欺として訴え賠償を要求できるのだ。今、朝日は新聞の使命を無視しねつ造記事と変更記事を書き散らかしている。新聞記事には著作権はないが、盗作の問題なら鬼の首を取ったように書きなぐる。が私の劇作の中の創作した文章を許可もなく記事にしていて文句を言えばなしのつぶてであった。サンゴの自作自演のころのことである。
私も愚かにも朝日を取っていた。やめるというとやくざ屋さんが来てどうしてやめるのか、何が不満なのか、景品がほしいのかと威圧的に脅迫的な態度で喚いた。
朝日は「赤が書いてやくざが売って馬鹿が読む」と言われているがこのことはには信ぴょう性がある。
水島で石油会社がタンクから原油を流出し、構内はおろか、水島灘、瀬戸内海まで広く原油が流れて汚染した事件があった。その時、現場に駆け付けた記者がストロボを焚いて写真を撮ろうとし、工場の保安課にカメラを取り上げられ叩きつぶされたこともあった。この程度の記者たちが記事を書くのだから、引火していたら大変なことになるという認識はゼロだった。
さて、
新聞社を潰すのには、購読をやめて部数を減らす。広告主に文句を言い不買運動を行う、国民の怒りを教える、押し紙の実数を知り拡散する、国民にできないことはない。朝日の葬式は国民が出す…。
新聞社がつぶれると自然にテレビ局もつぶれる、放送記者など何の役にも立たなくて系列の新聞社から記事をもらっているからだ。
今、朝日はその危機を感じて死に物狂いの反抗をしているがそれが死期を早めることを知らない。
毎日は聖教新聞、公明新聞を印刷している。部数としては200万部そこそこと聞いた。聖教、公明を印刷してようやく維持しているともいえる。
テレビにしても新聞にしても電通事件で広告がたやすくはいらなくなっている。また、テレビでは電通の息のかかった俳優で跋扈していたがそうはいかなくなっている。
それにしても理念も倫理もないマスコミが多いことに驚く。
青息吐息・・・その悲鳴はより政府批判を増し、国民には虚偽による洗脳が増すことになろうが、国民は成否をしっかりと判断して惑わされ振り回されてはならない…。・
私の尊敬する言論人でジャーナリストの宮武外骨氏は、
「たくさん新聞はあるが尻を拭くには朝日が一番いい、だから売れている」
と、滑稽新聞で書いている…。

明日は今日より素晴らしい…。9

倉敷は曇りのち晴れという暑い一日…。
頭がおかしくてしょうがない…。これは台風の影響、いいえ、道連れの病なのです…。

今日はご迷惑でしょうが、出版のご案内をさせていただきます。
「砂漠の燈台」幻冬舎発行の私の小説の宣伝を・・・。
いよいよ、8月22日に全国発売が決定しました。新聞の広告も出ます。アマゾンにても販売いたします。
こやつは何を書いているのか、日ごろ御託を並べておいてといわれる方は書店の店頭で立ち読みでもしてください。買ってくださいというのは不遜なことでとても言えません。

創作秘話 「砂漠の燈台」

 この作品は、私が読みたいから書いたものだ。この歳になって若かったころに読んだ物を引っ張り出してと言うのも億劫なので書きながら読むと言う事で書き始めた。五年前に書斎をリフォームして五千冊以上は破棄した。あとには、図書館でもないというものを遺したが六畳の間に平積みをしていて、昔の書斎のようになにが何処の棚と分かっていた時と違って何処にあるのかも分からなくなったからと言う事もある。
 今は背表を見てこの本を読んだのはあの頃だったなと記憶を呼び醒ましてほくそ笑んでいる。私は読んだ本はすぐに忘れて次々と乱読していたから覚えていないと思っていた、が、背表を見ていると何処にこのような事が書いてあったと思い返している、と言う事は記憶のなかに蓄積しているということになる。そんなに精読をしていないのにと、作者に申し訳ないと思うが、今思い出されると言う事はある意味で作者が作品を通して私の心をつかみ、私はその思いを心に畳んでいたという事なのだ。
 忘れていること、そのなかから私の書くものに影響を、人間を教えていてくれたことに感謝しなくてはならない。
 多い時には二・三万冊はあったから、積読ものもかなりあったが、そのなかから知識となり知恵に切り替えられたものも沢山あったろう。それが私の頭の中で私なりの表現に変えながら書いたと言えよう。
 福沢諭吉氏が、国家、民族、と言う言葉を発明し、作り、今では世界中で使われるようになっていることもありがたいもので、総ての言葉を先人が発見し、名前を付け、たものである。が、それらを使い書いて創造物だからと言って著作権を欲しがる作家の多くは何と言ういやしい考えしか持ち合わせていないのだろうか。
 作家が金に執着をし欲を持つと碌な事はない、それが今の日本に文学が育たないと言う事に通じている。まず先人が残した言葉を使って今を書き後の世まで遺すと言う事は無いらしい。今、金が欲しい乞食根性なのである。
 私はそんな本を読みたいとは思わないから、自分のために書いている。
 爾来、書きものをするという事は自分の備忘禄として、また、子孫のために書いたものだ。作家は金に目がくらんだ亡者、著作権なんか溝に捨てることをお勧めしたい。
 この「砂漠の燈台」は自然と人間の一体化を基軸にして人間のこころに巣くう曖昧な心の中から光を見つけると言う物語にした。
 敗れ成就しなかった恋、青春の思い出が何時までも心に燃えていて、それを心の糧にして人生に挑戦すると言う物語を書いた。そんな小説を読みいと思ったからだ。歳をとると若い人たちの物語を、はかない時の巡りのなかに生きる人達の物語を読んでみたいと言う事も書く動機であった。
 今を生きている人達に文句は一言もない。その人たちになにが正しいかを言う資格は何処の誰でもない。ます、自分はこのように生きると言う事を持って生きることだと思うからだ。それを世間に対してこれが生きることの大切さだ、と言うのは宗教家、哲学者である物書きではない。物書きはその人たちよりもっと先に進んでいなくてはならないと言うのが持論だ。これは、歴史家、郷土史家の人達と大いに違う点だ。物書きはロマンを持たなくては書けない、常識ではなく知恵がなくては書けない、足元を見て全体を想像する力を持っていないと書けない、時間を感じてその時代に飛んでいける感性がなくては書けない、人の死を見てその人の全人格、過去と現在と未来を感じなくては書けない、雲のあり方を見て世界の趨勢を感じ取る機知がなくては書けない、顔や名前を物語の中で人格を持ったひとりの人間として書かなくてはならない、それがなくては一行も書けないものなのだ、が、今の作家はそれがなくては書くことが出来るらしい。見上げたものである。
 私は、明治大正時代の偉人の物書き宮武外骨が大好きである。見えていたから何ものにも動じず書きたい事を書き放り出したのだ。この反骨精神こそが人間の証しである。
 また、坂口安吾、この人からは狂気とあくなき執着を見て取れることになぜか親しみを感じる、堕落、それは一番に人間らしいなどとほざくあたりは喝采ものだ。この人の物が今は読まれているのか、これほど心やさしい作家はいないと言える。何をしてもそれが人間と言うものだからいいのだ、この言い訳は見事としか言えない。
 宮武外骨と坂口安吾の共通しているものは人間の優しさであり、それゆえに持たなくてはならないものは狂喜なのだと教えてくれる。
 私は二人ほど優しくはない、だからきれいなものを書いた、書きたいと言う自己満足をしているのだ。
 砂漠の中で道に迷う人達のために砂漠の中で明りを灯そうと言う一人の女性の姿を書き著わした。それは、人の心に巣くう不遜と傲慢なことなのかも知れないと思いながら書いた…。
 明日、私はサハラ砂漠にいるかも知れない…。と言う言葉を最後として閉じた…。

続編は、人間と自然との関わり合いについて、また、これからの人間の進む道を問うという形で書いた。
燈台、それは人の心にある事を書きたかった

ここに謹んでご報告いたします…。


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